つくば市議会議員 金子かずお
週刊・新社会つくば 金子さん町を歩く 議会報告

週刊・新社会つくば
2011年8月23日 第762号 発行:新社会党つくば支部

原発と事故の歴史

 牛久史談会の8月例会で、金子かずお議員の友人で牛久市議会議員の杉森弘之さんが「原発の開発と事故の歴史」について報告をしましたので以下に連載します。

①原発は原爆製造から始まった


 原子力利用は、米国を中心に進められた原爆開発のための「マンハッタン計画」から始まりました。この計画は「ナチス・ドイツよりも先に原爆を作れ」とい う大義名分の下、科学者が総動員され、1942年、シカゴ大学で、世界初の原子炉シカゴパイル1号が完成。これは、原爆用プルトニウムを製造するためのも ので、1945年に広島・長崎に投下した世界初の原子爆弾を開発しました。その原子炉の中に水を通し、加熱・沸騰した水を利用すれば発電できる、という考 え方から、原子力の商業利用=原子力発電が始まりました。

米国は軍事目的で核独占を狙う

 米国は当初、1946年1月に国連原子力委員会に「バルーク案」を提出し、将来の核拡散に備え、すべての国の原子力を国際管理しようとしたり、8 月にマクマホン法を制定し、海外への核拡散を米国からの働きかけを必要とするなど、原子力開発を軍の支配下に置き、徹底した核独占、秘密主義に貫かれてい ました。また、軍は、商業用原子炉=原発の本命を高速増殖炉におきました。

 しかし、ソ連は1947年、ウラルのキシュチムにプルトニウム生産炉を完成させ、1949年にカザフのセミパラチンスクで核実験に成功。52年 10月には英国がプルトニウム爆弾の実験に成功。53年8月にはソ連で水爆実験が成功。米国の核独占は早くも打ち砕かれたのです。そして、原発開発でもソ 連、英国に追い越されつつありました。


アイゼンハワー路線転換の狙い

 そこで米国は、1953年12月、アイゼンハワー大統領が国連で「平和のための原子力」と題する演説をし、これを皮切りに原子力平和利用キャン ペーンをスタートさせました。原発を積極的に他国に輸出し、米国の「核の傘」を押し広げていく戦略に転換しました。そして、高速増殖炉中心の原発路線を変 更し、原子力潜水艦の動力用に開発してきた軽水炉を発電用に転用し、巻き返しを図ったのです。(日本の原発がほとんど軽水炉であるのは、ここに関係してい ます。)


②日本の原発開発の歴史


 この米国の政策転換=「原子力の平和利用」が、日本が原発の導入に向かった背景にあります。そして、原子力の平和利用の陰で狙っていたのは、原子力の軍事利用=日本の核武装化でした。

正力、中曽根が推進役

 日本に原子力を導入した最大の「推進役」は、当時、改進党の国会議員だった中曽根康弘と、読売新聞社長の正力松太郎でした。正力は原子力をつかん で総理の座を狙っていたといわれます。中曽根は、「私が戦争中海軍に動員されて高松にいた時、広島の原爆雲を見た。この時私は、次の時代は原子力の時代に なると直感した」(中曽根康弘「政治と人生―中曽根康弘回顧録」と語っていますが、正力と中曽根は緊密に原子力を推進していきます。

第5福竜丸事件隠し原子力予算

 1954年3月3日、当時改進党に所属していた中曽根康弘らが初の原子力研究開発予算を強行しました。自由、改進、日本自由の保守3党が、本予算に突然2億3500万円を潜り込ませる修正案を提出し、わずか3日間で通過したのです。 

 これは、3月1日にビキニ環礁で米国による水爆実験により遠洋マグロ漁船「第5福竜丸」などの漁船員らが被ばくしたことを伏せるように強行したもので、数値の235はウラン235をもじるなど、当初から秘密主義、デタラメなものでした。


原子力三法で体制構築

 1955年に原子力三法(原子力基本法、原子力委員会設置法、原子力局設置法)が公布され、この時に定められた方針が「民主・自主・公開」の「原 子力三原則」でしたが、その後の原子力村の状況は三原則とあまりにもかけ離れたものです。1956年1月に原子力委員会が設置され、正力が原子力委員会初 代委員長に就任しました。


科学技術庁の目的

 正力は1957年4月29日に原子力平和利用懇談会を立ち上げ、さらに同年5月19日に発足した科学技術庁の初代長官となり、原子力の日本への導 入に大きな影響力を発揮しました。科学技術庁は、①宇宙、②原子力、の2本柱から成り立っており、まさに核兵器の製造技術開発のための中心となりました。 ちなみに、中曽根の内閣初ポストは科学技術庁長官です。

 1956年6月に日本原子力研究所(原研)が特殊法人として設立され、研究所が茨城県那珂郡東海村に設置。これ以降東海村は日本の原子力研究の中心地となっていきます。

1957年11月1日には、電気事業連合会加盟の9電力会社および電源開発の出資により日本原子力発電株式会社(原電)が設立されました。


東海村で初発電

 日本で最初の原子力発電が行われたのは1963年10月26日で、東海村に建設された動力試験炉であるJPDRが初発電を行いました。これを記念して毎年10月26日は原子力の日(脱原発の日)となっています。

 日本に初めて設立された商用原子力発電所は同じく東海村に建設された東海発電所であり、運営主体は原電。原子炉の種類は世界最初に実用化されたイ ギリス製の黒鉛減速炭酸ガス冷却型原子炉でした。しかし経済性等の問題によりガス冷却炉はこれ1基にとどまり、後に導入される商用発電炉は、先述の通りす べて軽水炉となりました。


電源三法で原発自治体を育成

 1974年には電源三法(電源開発促進税法、電源開発促進対策特別会計法、発電用施設周辺地域整備法)が成立。電力会社から吸い上げた税金を特別会計にプールし、そのカネを自治体にバラまく仕組みを完成させました。

 民主党政権になってさらに加速し、2010年6月18日に政府が閣議決定した「エネルギー基本計画」では、2030年までに原発14以上を新増設 する計画を打ち上げ、現在60%台まで急落している原発稼働率を90%に引き上げる方針を掲げました。そして、原発の輸出に力を入れたのです。

【次号はお休みです】




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