◎障がい福祉施策について
日本の公害の原点=足尾銅山鉱毒事件
田中正造を訪ねるツアーからの報告
牛久市議の杉森議員から日本の公害の原点=足尾銅山鉱毒事件と、日本の反公害運動の先駆者=田中正造(写真)を訪ねて、の報告をいただきましたので掲載しました。
牛久史談会は5月7日、日光市の足尾銅山、佐野市の正造生家・佐野市郷土博物館、春日岡山惣宗寺(佐野厄除大師)等を見学し、車中で足尾銅山と鉱毒事件についての説明を受けた。
1、東アジア一の大銅山
足尾銅山は1550年発見と伝えられているが、1610年百姓二人が鉱床を発見し、幕府直轄の鉱山として本格的に採掘が開始された。江戸時代にはピーク時で年間1,200トンもの銅を産出し、「足尾千軒」と言われるように栄えたが、明治にかけて極度に減少し、閉山状態になった。
1877年に古河市兵衛(後に古河鉱業、現・古河機械金属㈱)が足尾銅山の経営に着手。
2、鉱毒は今も残る
しかしこの鉱山開発と製錬事業の発展の裏では、足尾山地の樹木が坑木・燃料のために伐採され、精錬時の燃料による排煙や、精製時に発生する鉱毒ガス(主成分は二酸化硫黄)、排水に含まれる鉱毒(主成分は銅の化合物、亜酸化鉄、硫酸)が発生。
鉱毒ガスやそれによる酸性雨により足尾町(当時)近辺の山は禿山となった。木を失い土壌を喪失した山は次々と崩れていった。山の崩壊は21世紀となった現在も続いている。
崩れた土砂は渡良瀬川を流れ、下流で堆積した。このため、渡良瀬川は足利市付近で天井川となり、1947年のカスリーン台風襲来時は洪水の主原因となった。
鉱毒による被害はまず、1878年と1885年に、渡良瀬川の鮎の大量死という形で現れた。次に、渡良瀬川から取水する田園や、洪水後、足尾から流れた土砂が堆積した田園で、稲が立ち枯れるという被害が続出した。1899年の群馬栃木両県鉱毒事務所によると、鉱毒による死者・死産は推計で1,064人。2011年の東北地方太平洋沖地震の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、現在でも鉱毒が残っている。
3、谷中村が強制廃村に
1901年には、足尾町に隣接する松木村が煙害のために廃村となった。このほか、松木村に隣接する久蔵村、仁田元村もこれに前後して同様に廃村に。
さらに鉱毒沈殿用の渡良瀬遊水地が当初、埼玉県側に作られる予定であったが、激しい反対のために栃木県側に予定が変更された。栃木県下都賀郡谷中村である。
谷中村はこれに激しく抵抗し、村会は隣の藤岡町との合併案を否決したが、1906年に強制廃村となり、藤岡町に合併された。
4、日本の反公害運動の先駆者=田中正造
田中正造(1841年12月15日- 1913年9月4日)は下野国安蘇郡小中村(現・栃木県佐野市小中町)出身で、父の跡を継いで小中村名主となり、幕末から村民らと領主である高家六角家に対して政治的要求を行っていたが、このことがもとで明治維新直前の1868年に投獄された。1878年、区会議員として政治活動を再開。栃木新聞(現在の下野新聞)が創刊されると、翌年には同紙編集長になり、紙面上で国会の設立を訴えた。
1880年、栃木県議会議員。1882年、立憲改進党が結党されると入党。県令だった三島通庸と議会で対立。自由民権運動のなかで、加波山事件に関係したとして1885年逮捕・投獄される。1886年には県議会議長に当選。1890年以後、衆議院議員選挙に当選6回。
1890年、渡良瀬川で大洪水があり、上流にある足尾銅山から流れ出した鉱毒によって稲が立ち枯れる現象が流域各地で確認され、騒ぎとなった。1891年、正造は鉱毒の害を視察し、第2回帝国議会で鉱業停止要求。1896年には要求つぶしの永久示談の不当性を追及、群馬県館林市の雲龍寺に鉱毒事務所を設置。
1897年になると、農民の鉱毒反対運動が激化し、農民らが「押出し」と呼ぶ東京への陳情団が大規模なものだけで6回に及ぶ。1900年2月13日、第4回押出しで、農民ら1万2000人は川俣村(現・明和町川俣)で警官隊と衝突。流血の惨事となり、農民多数が逮捕された(川俣事件)。正造は国会で事件に関する質問を行った。これが「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問書」で、日本の憲政史上に残る大演説であった。正造は強制破壊当日まで谷中村に住み続けて抵抗した。
なお鉱毒事件の加害者責任が古河鉱業と決定したのは、1974年5月11日のことである。
ツアー当日は時間の関係で、谷中村跡は訪問できなかったが、正造の葬儀を行った惣宗寺(佐野厄除大師)を最後に訪問した。正造の本葬には約3万人が参加したという。